出会い
1985年、私はライフワークとして千葉県にセラピードッグトレーニングプラザを開設し、アメリカから連れてきたセラピードッグたちの訓練をしていました。ある日、犬たちと散歩をしていると、廃墟で子供達が出入りしているのを見つけ行ってみると、母犬と5頭の子犬を見つけました。偶然ですが、かつて私が隔離されていた結核療養所の跡地でした。
母犬は雑種で、左耳が折れ、ボロボロの首輪が首に食い込んでいて、後ろ足の一本は変形していました。子犬を産んで捨てられたところを、子供たちが拾って餌をあげていたのでしょう。1人の女の子が、母犬を「チロリ」と名付けたと、教えてくれました。
救出
子犬たちと捨てられていたチロリを初めて見たとき、何て悲惨な犬だろうと思いました。同時に、何て不憫だろうとも。助けなければと思い、里親を探すことにしました。子犬たちは里親が決まりましたが、チロリは保健所に捕獲されてしまい、それを聞いて私は急いで保健所へ駆けつけました。そしてチロリを殺処分寸前で救出し、私のケンネル(犬舎)に引き取る決心をしました。
ケンネル(犬舎)に連れて行ってシャンプーをしたところ、1度では汚れが取れず、2度シャンプーすると、茶色い犬だと思っていたチロリは、驚くくらい真っ白になりました。おそらくシャンプーは初めてで、気持ち良かったのでしょう。チロリは尻尾を少しだけ振ってくれました。
ケンネルには、アメリカから連れてきたセラピードッグが6頭いて、トレーニングを行っていました。ほとんどがシベリアンハスキーで純血統の大型犬。その中で雑種犬がやっていけるかどうか。心配でしたが、チロリは私の想像をはるかに超えていました。
訓練
〜チロリの根性〜
〜チロリの根性〜
捨て犬で雑種のチロリが、アメリカのシベリアンハスキーたちとやっていけるのか。最初、立派な大型犬6頭に気おされ、ブルブルと震えて私から離れないチロリを見て、不安でした。でも、やがて雑種の根性を見せ始めます。
セラピードッグの重要な訓練に同速歩行があります。相手がどんな速度で歩いても合わせられるように、並足、速足、駆け足、ゆっくりした歩行などを訓練をしていきます。
大型犬たちの歩行訓練を見て、チロリも一緒に歩き始めました。チロリは足が短く、しかも右の後ろ足が変形している。後になって、チロリがつえに対して異常におびえたことを考えると、おそらく、棒などでたたかれて、変形してしまったのでしょう。真っすぐ座ることも出来ない。大型犬と歩くには、何倍も足を動かさなければなりません。
最初は後ろの方で、ついていくのがやっとでした。それでも必死に走り続ける。そして、ついにはハスキーを追い越してしまいました。
そうするうちに、チロリはいつの間にか、リーダーになっていました。
チロリとの
信頼関係
信頼関係
チロリは最初から私に心を開いてくれたわけではありません。抱くといつも体が固まっていた。人間へのおびえがあったと思います。信頼関係を築くために、私はチロリと一緒に寝ました。彼女は私の布団の足もとで眠るんですが、夜中に目が覚めてパッと見ると、いつも起きていた。私のちょっとした動きに反応するほど、気を張っていたんでしょう。ところがあるとき、夜中に目覚めたら、足もとでぐっすり寝ていた。チロリの寝顔を初めて見て、やっと安心してくれたんだな、ああ、良かった、と思いました。
セラピードッグ
としての気質
としての気質
チロリがケンネルに来て3年目。ブラニガンというハスキーがガンになりました。そのとき、チロリは本当の力を見せた。様々な治療を尽くしたにもかかわらず、ガンが再発、転移し、衰弱してフラフラ歩くブラニガンに、チロリは寄り添って、同じスピードで歩いたんです。ブラニガンが苦しくて立ち止まると、チロリは5、6歩前に出て、振り返ってブラニガンに歩くよう促す。それは、お年寄りや病人に合わせて歩く、セラピードッグの姿そのものでした。
夜は、ブラニガンに寄り添って寝るようになった。じっとブラニガンを見つめるチロリは、寝たきりのお年寄りのベッドで添い寝をするセラピードッグのようでした。何も教わっていないのに、生まれ持った思いやりや優しさで、訓練を受けたセラピードッグと同じ行動を見せたんです。
ひょっとしたら、チロリはセラピードッグになれるのではないか、そう思いました。
セラピードッグ
トレーニング
トレーニング
ガンになったハスキーを「介護」するチロリを見て、私はセラピードッグに育成する決心をしました。
セラピードッグの訓練には45教科あります。これは現場の体験から私が作り上げたもので、2009年に私は、日本で初めて「セラピードッグの世界(日本経済新聞出版社)」という動物介在療法の解説とともに、独自に考案したセラピードッグの訓練カリキュラムの教本を出版しました。
トレーニングの基本は歩行です。ゆっくり、普通、駆け足、速足。あらゆる人のスピードに合わせて歩く。後遺症のある人や障害者の変則的な動きにも合わせられるようにする。
横にぴったりとついて、人が立ち止まると止まり、じっと人の目を見る。アイコンタクト、つまり、目でもう1歩行こうと促す。車いすの誘導もあります。イスの上に乗って人と対面する訓練もある。普通のペットなら、1分もイスの上でじっとしていられません。
私の訓練法は、食べ物を使わない。体罰も絶対にダメ。空腹や恐怖では信頼関係は築けない。出来たら徹底的に褒めるという方法です。その代わり時間がかかる。45教科を終えるのに、約2年半かかります。
チロリのアイコンタクトは見事だった。何と愛情の深い目だろう、と思いました。
そんなチロリが、訓練中にその場から逃げたことがあった。つえをついた人に寄り添って歩くトレーニングでした。お年寄りはつえをよく落とす。つえが落ちてぶつかっても動揺しないよう、慣れさせるのですが、チロリはつえを見たとたん、震え上がってしまった。棒で殴られて生きてきたんだな、と思った。犬は話せません。こうして訓練でトラウマを知ることになりました。
私はチロリと寝るとき、つえを横に置くことにしました。そして、これはつえと言って、殴るものじゃない、お年寄りには大事なものなんだ、と話しかけた。最初は嫌がったチロリでしたが、だんだんと慣れて、つえがあっても眠れるようになっていきました。
1996年、チロリは通常2年半かかる45の教科を、6か月間でクリアした。驚きでした。
チロリが捨て犬から日本で初めて、セラピードッグになった。そして、どんどん福祉の現場で活躍し始めます。私は殺処分直前に救い出した他の犬たちも、セラピードッグにしようと思った。不安はありました。捨てられて、年齢も、親も分からない犬たちを、果たして訓練できるのか。チロリだけが特別かもしれない。大きな賭けでした。
きちんとやるには組織にする必要がある。特に行政は、個人の活動では相手にしてくれない。手伝ってくれる人たちをスタッフにして、2002年に国際セラピードッグ協会を設立し、15年には、協会を財団法人化しました。
活躍
96年には、チロリが捨て犬から日本で初めて、セラピードッグになった。そして、どんどん現場で活躍し医療や福祉の現場で素晴らしい力を見せました。
お年寄りたちはチロリと触れ合うと、出なかった声で名前を呼び、動かなかった手で頭をなで始めた。そんな多くの人の中でも、長谷川外吉さんのことは忘れられません。長谷川さんは人形町の洋食屋さんで、私も食べに行ったことがあった。ある日、長女がやって来て、父が中央区の高齢者施設に入所しているので、セラピードッグに来てほしいと頼まれました。
当時88歳だった長谷川さんは、アルツハイマーで家族の顔も分からなかった。犬好きで、犬に会えば何か思い出すかもという切実な依頼でした。さっそくチロリと訪ねましたが、車いすに座った長谷川さんは無表情で、目の前に犬がいることも分からない。要介護5。カルテには失語症、歩行不可とあった。
〈介護が必要な度合いで、要介護5は最も重い。日常生活のほぼ全てに全面的な介護が必要な状態で、寝たきりや意思疎通不可能な人がほとんど〉
私たちはまずチロリに触れてもらい、それから「チロちゃんですよ」「名前を呼んで下さい」と話しかけた。するとある日、長谷川さんが「面倒くせえなあ」と言った。「なんだ、しゃべれるんじゃない」と言うと、笑っている。横にいた看護師はびっくりしていました。チロリの名前を呼び始め、チロリにだけ話しかけるようになった。「ビーフカツを作るのがうまいんだ」「釣りが大好きなんだ」・・・・・・と。それを見てご家族が泣いていました。
次はチロリと歩きましょう、と促しました。長谷川さんは車イスから立ち上がるのは無理だと断ったけど、チロリに見つめられ、「歩きたいね」と言い始めた。そして、イスから立ち上がった。両脚が震えていましたが、チロリに目で誘われ、少しずつですが、つえをついて部屋の中を歩き、廊下を歩き、ついにはトイレまで歩くようになった。家族の名前も思い出した。
亡くなったのは90歳になる1か月ほど前でした。脳梗塞で集中治療室(ICU)に入り、最後にチロリに会わせたいとご家族から連絡が来た。私たちはすぐに向かった。でも、担当医から前例がないので犬はICUに入れられないと言われた。私は「前例を作ってはダメなのか」と訴えましたが、結局、入れなかった。
ご家族は代わりにチロリの本の表紙の写真を見せたそうです。もう何も分からないと医者に言われた長谷川さんが、最期に「チロちゃん、ありがとう」と言った。後からそう聞きました。
葬式には一緒に呼ばれ、私は長谷川さんのひつぎの上にチロリを載せた。そこで長女の方から、何か歌って、父に聴かせてほしいと頼まれました。ここは葬儀場でみんな泣いているし、マイクも音響もない。いきなり歌うのは……と戸惑いましたが、チロリはずっとひつぎから離れない。
見果てぬ夢/探し求めて
私は初めてアカペラで、自作の「キープ・オン・ランニング」を歌いました。
チロリ〜最後のアイコンタクト〜
本当の年齢は分かりませんが、年をとって、チロリの体は衰えていきました。1999年には目の手術。2003年、虫歯を2本抜いた。04年には腫瘍の摘出手術。その後、乳がんが見つかり、余命3か月を宣告された。06年3月16日、チロリは世を去りました。(推定16歳)
最期の日々、歩くことができなくなったチロリは、前脚をかいて、私に抱いてくれというサインを送るようになった。息をひきとるときは、私を見つめていた。
殺処分寸前で私の腕の中で抱かれて救助したチロリは、セラピードッグとして立派に活躍し、そして最期はもう一度私の腕の中に抱かれて天国へと旅立ったのです。
「お父さん、ありがとう」と声が聞こえた気がした。本当にそう思いました。私には家族がいない。でも、チロリが私の娘でした。
荼毘に付すまでの3日間、私はチロリと一緒に寝ました。まだ、温かかった。顔を見ながら、いろんなことを考えました。私はミュージシャンで、音楽界で生きてきた。そこでは自分が絶対だった。でもチロリには、そんな自己顕示欲は全くない。ただ、愛情と信頼だけ。彼女といると、自分がミスター・イエローブルースではなく、ただの大木トオルになっていく気がした。本当に教えられることばかりだった。
今、チロリのために何ができるのか。そう思ったとき、自分が歌手だということを思い出した。歌を作ろうと思った。最後に私を見つめてくれたから、「アイ・コンタクト」。チロリへの思いを、すべてそのまま、歌詞にした。無の境地でした。震える手でギターを弾きました。
チロリに続く
セラピードッグたち
セラピードッグたち
私は殺処分直前に救い出した他の犬たちも、セラピードッグにしようと思った。不安はありました。捨てられて、年齢も、親も分からない犬たちを、果たして訓練できるのか。チロリだけが特別かもしれない。大きな賭けでした。
現在、チロリの魂を受け継いだセラピードッグたちは、多くの高齢者や障がい者の皆さんの心身のケアをサポートし、笑顔と生きる勇気をお届けしています。
チロリの功績
翌07年、東京・銀座の築地川銀座公園に、「名犬チロリ記念碑」が建てられました。セラピー活動先のお年寄りたちにチロリの死を伝えると、みんなが会いたいと言うので、何か方法はないかと思ったんです。行政からも銅像という話があったし、私も手を合わせる場所がほしかった。場所は中央区が提供してくれました。公園は、チロリが通う施設への通り道でした。チロリは保護されたとき、自分の子犬と別れるのを悲しんでいた。それで、5頭の子犬も一緒に銅像にしてもらいました。
そして、チロリは全国から30以上にのぼる感謝状、表彰状が授与され、新聞、報道に大きく取り上げられました。名犬チロリの生涯は今、たくさんの本になり、映画になり、教科書、切手になり、セラピードッグの存在を知らしめてくれました。そして、動物愛護管理法の改正と殺処分の減少、そして社会福祉に多大な貢献をしました。
私は、一般の人向けにセラピードッグ訓練会を定期的に開催しています。愛犬をチロリのようにセラピードッグへ育成して社会福祉の現場で活動したいという人たちが全国からたくさん来てくれます。犬たちも小型犬から大型犬など様々で、最近は保護犬を連れて来られる方が増え、私のこれまでの長い活動が一般の皆さんに広まってきているのを実感しとても嬉しく思います。
受講者は延べ350人になります。みんながセラピードッグに興味を持って、自分の愛犬を訓練したいと言ってくれる。私が一人で始めた頃を考えると、夢のようです。日本でのセラピードッグの普及は、成功した。
ただ、国際セラピードッグ協会の活動資金は、私の音楽や著書の印税、講演料がほとんどです。行政からは一切、助成を受けていない。セラピードッグの派遣も交通費などの実費以外はもらっていません。これから協会をどう続けていくか、不安はあります。
それに、犬や猫の殺処分は続いている。いくら引き取っても限界はある。殺処分をなくすには、法律しかない。動物愛護法は1973年に制定され4回改正されましたが、殺処分廃止はまだ実現していない。
法律を作るのは政治家です。ペットの乱繁殖、乱売を規制して、殺処分を禁止するよう議員立法で動物愛護管理法を改正するべきだ。そう訴え、議員会館で講演もやった。でも、本気で動いてくれる人は少ない。
私たちや愛護団体が引き取っていることもあって、殺処分は減り続けている。《犬と猫の殺処分数は74年度に犬が約116万頭、猫が6万頭だったが、その後、年々減少、2021年度は犬が2,739頭、猫が1万1,718頭だった》
もうゴールは見えている。あと一歩なんです。経済大国・日本が、毎朝、犬や猫を殺しているなんて、あってはならない。小さな命を救えない国は、人を救うことはできない。
これまでの私の人生は、失ったものを別の形で取り戻すための戦いでした。殺処分ゼロは、私の悲願であり、これからも戦いは続くでしょう。
そして最後に、チロリからの教訓です。
命あるものは幸せになる権利がある。